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<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(6)

2010 年 10 月 20 日 水曜日

 「「記憶」」の話、大脳の何処に蓄積されるのか、などの話をしていますが、人間が人間世界を気持ちよく気楽に楽しく生きる事が可能となる話をしています。

何度か、繰り返して話をしていますが、此の世を自分だけで一人で生きるのではありませんから、他者の事や事情や状況などを考えてあげられる{{人}}になっていなくてはなりません。

相手の気持ちを考えてあげられる{{人}}でない場合ですね・・、

当方が持ち出した素晴らしい言葉ですが、「「身代わり不可症候群」」と表現しました。

 

 再度、伝えておきますが、「「身代わり不可症候群」」ですね。

自分の事だけを考えて、何時も自分が「得をする事ばかり考えると、逆に、自分の{こころ}は疲れ果ててしまいます。

相手の気持ちを明確に考えてあげて、相手の気持ちになってみる事が大切ですよ。

相手の気持ちを理解できれば、「不満」、「不平」、「悔しさ」、「惨めさ」、「悲しみ」、「怒り」、「孤独」、「劣等感」、「やきもち」、「嫉妬」、「怨念」、などなど抱える事は無いでしょう。

「「海馬」」にしろ、「「側頭葉」」にしろ、或いは、大脳のどの部分にしろ、自分の過去を掘り起こしてから自分の人生を{{再解釈}}しないと、「器」の大きな人間になれません。

どのような人達に出会っても、「劣等感」さえ無ければ、苦しいとか辛いとか惨めに感じる事などありませんからね。

 

 最近では、当方も、人間の「「記憶」」が大脳の決まった部分に、この場所にしか記憶されていないと、言ったような表現は少し無理なのかとも感じさせられています。

この問題は、読者に少しながら一部は誤解をさせたような気持ちもあります。

ですが、突き詰めて考えると、人間の記憶が大脳の何処に記憶されたとしても、当人が自分の過去を思い出してくれないと、あまり意味が有りません。

「「海馬」」にしろ、「「側頭葉」」にしろ、或いは、「「記憶」」が大脳の何処の部分に蓄積されていても良いでしょう。

究極的には、記憶の回想を可能な限りしておいて、其処の記憶の誤解を解ければ最高に良いのです。

 

 記憶を散策して、再度の事、自分の正しい記憶を再構成していくべきです。

やりっぱなしの人生と過ぎ去ったままの人生観だけでは、残された人生を生きて欲しくないと考えます。

人間って、幼い頃から自分勝手に生きていますよ。

沢山の人達は、幼い時の自分を含めて、真面目な素直な自分だと思って錯覚しています。

それでも、自分は真面目だと自惚れて生きていますから、{{愚かな人間}}ですが、自分で気づいていないのだから悲しいものです。

人生では、誰もが、少しでも立ち止まり<<自分の過去>>を見つめる事、「「こころ洞察法」」=「「マインドサ―チセラピィ―」」を体験下さいませ。

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(5)

2010 年 10 月 18 日 月曜日

 とにかく、人間が誕生する前から、胎内においても、大脳が形成されていく段階で((何らかの記憶))が、蓄積されるとも思われますが??? 如何でしょうか・・。

勿論、何らかの記憶が蓄積されても消えていくのでしょう。

「「海馬」」も「「側頭葉」」も、また、「「前頭葉」」でさえ、十分に成長していないから、人間が幼児から大人になっても{{記憶}}の無いその事は、無理ではない話でもありましょう。

時折に、自分の「「「前世」」」が分かるなんて言う人もいますが、御自分の思い込みや、自分以外の他者への<<洗脳>>とか、相手の前で<<面白くさせる>>とか、色々な場合があるでしょう。

 

 勿論、当方は、「「自分の前世が分かる」」と自己主張する人達には、そうですかと{{その話}}を聞き入れておくだけです。

いずれにしても、今回、当方が話をしたかったのは、人間の「「記憶」」にも様々な種類の「「記憶」」がありますが、大脳の「「海馬」」から「「側頭葉」」とかの話もありますが、まだまだ、今後の研究にて人間の{{記憶}}が大脳のどの部分に明確に記憶されていくかは、変化していくでしょう。

「「海馬」では、古い{{記憶}}は残らないとも言われます。

「「側頭葉」」に、古い記憶が残されるとも、言います。

 

 それほどに、人間の「「記憶」」が大脳のどの部位に蓄積されるかは、研究をしても大変に難しい分野のようです。

 もっとも、難しいものです。

人間の大脳を簡単に切除、切ったり縫ったりするものではありませんからね。

人間の癲癇の手術での医師の体験から、少しの事実が記載されてはいますが、詳細な研究にはならないでしょう。

今後の医療や心理学の世界で「「記憶」」については、解剖学的には如何なる結論がなされていくのか、大変に困難でありましょう。

{{こころ}}の世界、格別に「「心理療法」」の世界では、「「記憶」」の場所が何処であろうと、あまり関係ないのかも知れません。

 

 自分の{こころ}}を解きほぐすために、唯、自分の通り過ぎた<<生い立ち>>の過去の足跡を素直に歩いてみる事しか有りませんね。

素直に「「懺悔」」なんて言っても、普通の方達は案外と自分の過去の心を点検しないし、点検する度胸を持ち合わせていません。

そこで、当方が、考え出したのは、「「こころ洞察法」」=「「マインドサ―チセラピィ―」」と言って、あまり無理をしない状況から少しずつ自分の{こころ}の世界に入っていく方法なのです。

いきなり、「「内観」」と言っても、直ぐに、「「懺悔」」を正直に人間は行なわないところが、悲しい「性」であり「業」でしょう。 

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(4)

2010 年 10 月 15 日 金曜日

 何度か繰り返しましたが、まだまだ「「記憶」」と大脳の部位については明確でなく、唯、大脳の一箇所に限られたものではないようです。

当方、「「海馬」」「「海馬」」だと言っていましたが、最近は、少し違って前頭葉から入った刺激が「「側頭葉」」にも残ると言うのです。

格別に、比較的新しい記憶は「「海馬」」で、古い記憶は「「側頭葉」」とも言われるくらいですが、これも、まだまだ、今後の段階や研究の段階で違って来る可能性もありますね。

人間が作り出したものが、大空を飛ぶようになりましたが、まだまだ、人間の真実なる大脳の記憶装置の場所が不確定なのですから、悲しいかな、面白い現象でもありましょう。

 

 人間の大脳によって、「「天才の人」」もいるし、「「天才でない人」」も居るでしょうから、一つの事象だけを取り上げても、凄く興味あると言うか人間世界は不思議な世界ですね。

面白いもので、人間の技術??も変化して行きます。

「「記憶」」は側頭葉を通って「「海馬」」へ記憶するが、それも比較的に短期で「「海馬」」から離れて行きます。

「「海馬」」から、再び、側頭葉に記憶されたものは、長期間にわたり{{記憶}}として残ると言われています。

「「海馬」」から、側頭葉に記憶されなかった記憶は忘れ去って行くと言われてもいます。

「「記憶」」は前頭葉を通って側頭葉に記憶されるとも言われますし、一体に、全体的に明確に「「記憶」」が如何なる種類がどんな形で記憶されているか、まだ、不確定のようです。

 

 「「記憶」」になる事柄や人間関係にも沢山の種類が有りますし、全て同じ場所に記憶されるのかと問われれば、これも、大変に難しい問題になってくるようです。

当方、人間の記憶は全てが「「海馬」」に残ると、この{{閲覧文}}に記載した事もありましたが、こと、「「記憶」」と「「記憶」」の大脳装置の場所については、まだまだ、難しい問題があるように今後の未来に残されているようですね。

人間の考える大脳生理学や大脳生化学などについても、当方が感じて思う事は、昨今では、本当に大変だと実感しています。

人間の考える事柄が、未来の時代・時代によって変化するのですから、大変でしょうね。

人間の生い立ちからの過去の「「記憶」」が、自分の大脳のどの部分に「「記憶」」として残されているのか、これが、また、時代によって変化するのですから大変でしょう。

 

 当方の最初の{{閲覧文}}には、人間の生い立ちの過去の「「記憶」」が、大脳の「「海馬」」に蓄積されて残っています。

「「海馬」」に蓄積された{{記憶}}を手繰り出して、自分の過去を再解釈するのが最良だと皆様に伝えています。

最近は、あまりにも人間の{{こころ}}は綺麗にならないので、本来的には「「懺悔」」だけで良いのですが、この「「懺悔」」→自分の過去を見つめる行いをしませんから、人間世界は、何時までも大変でしょう。

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(3)

2010 年 10 月 13 日 水曜日

 人間が、自分の過去を回想して「「懺悔」」などと、簡単には表現で

きますが、真実に大脳のどの部分が如何なる状態で細胞単位や或いは細

胞群が動いているのかは、まだまだ、不確定ですね。

当方、簡単に「「海馬」」だと伝えた{{記載文}}も書いていますが、「「海馬」」だけで考えてはいけないようです。

しかし、己の過去を回想してから、「「反省」」とか→「「懺悔」」に到る過程は、何処までも自分の過去を掘り起こすのが重要でして、「「海馬」」に拘らずに大脳のどの部分でも良いから、過去を振り返りましょう。

 

 そう、極端な表現になるでしょうが、大脳の何処の部分を使っても良いでしょう。

 間違いないのは、前頭葉だけは使用しなければならないでしょう。

前頭葉を通して、過去の記憶にまで、自分の意志が届いてからが出発点となるでしょう。

「「海馬」」~「「側頭葉」」、その他の明確な大脳の記憶場所は明確でありませんが、これよりも奥深い「「記憶」」の場所は、今後の生理学者に任せておきましょう。

これからの未来において、何時のこと、何処まで「「こころの記憶」」と大脳の記憶装置の「「場所」」が明確になるのかは、当方にも厳密には不確定でもあるように思われてなりません。

 

 「「海馬」」だと言っていましたが、最近では、「「海馬」」は比較的に新しい過去の記憶が蓄積されており、その後は側頭葉に記憶が古くなれば記憶されて蓄積されていくともいう話があります。

まだまだ、今後において、更に、明確になって来るのだろうと思われる段階でもあるようですね。

どちらにしても、人が「「過去の記憶」」を回想する場合、前頭葉を使用して過去の記憶に達しなければ無理である事には間違いありません。

前頭葉を使用して、未来だけを考える事は大変に{{人生を生きる事に無理}}があるので、「「過去を振り返りながら、自分の心・性格・人格などを確認しながら」」、自分の前方を見る事で、ありましょう。

 

 自分の力量・実力・能力などについて明確に知っておかねばなりませんが、「「過去を振り返らない限りにおいて・・・」」、そんな自分の{{こころ}}を知る事が不可能ですからね。

人間の「「過去の記憶」」って、沢山の思い違いもあるし、後から考え直すと<<もう少し別の考え方>>をしなければならなかった、などと、様々な考え直しが必要だったと気づくのでもあります。

この「「新しい気づき」」が最高に、大切ですね。

そして、「新しい気づき」を得る事で、人間の人格は変化していきますし、新しく「再生」と「新生」を得て生まれ変わって生きていけます。

「「記憶」って、大事なものですから、再解釈しておきましょう。 

<<未分類>>記憶(追加編):海馬~側頭葉(2)

2010 年 10 月 6 日 水曜日

 記憶は「「海馬」」だと言われていた時代も、少し違ってきているのでしょうか。

まだまだ、人間の「知恵」は足りていないようです。

そう、人間の体の病気も完治は難しいくらいですから、{{こころ}}の完治も難しいでしょうが、どちらかと言えば{{こころ}}は、逆に、人間の「知恵」で早く速やかに治るようにしたいですね。

人間の体は、必ずや、年老いて滅してゆくのですから、何処まで、人間が、何歳まで「「体」」に未練をもつか、その辺りが考え方によっては難しいでしょう。

 

 何時までも、継続できる「「生命」」ではありませんが、人間の欲望は面白いもので理解できている筈なのに、理解が出来ていないのです。

自分の体は何時までも有り得るものではない事を、真実に悟っていれば、そのような人々はあまり悩まない筈なのですが、・・・・。

面白いもので、自分の[体]を大事にする人達ほど、案外と悩みを抱えて生きる場合も多いですね。

何年も生きれば、人間の体の肌の色も次第に衰えていきます。

ですが、自分の体に拘る人々は、自分の年老いてゆくのも案外と辛い思いをします。

 

 「「記憶」」って、面白いものです。

「「記憶」」があるからこそ、人間は人生を喜んで楽しんで生きる事ができます。

悲しい出来事だと考えるか、そうでもないと考えるかは、その人の思考体系に関わっています。

「拘らない」、「執着しない」、「差別しない」、「分別しない」、「偏らない」、「異物化しない」、「捕らわれない」、などなどと明確に自分で{{こころ}}を読めれば気楽に生きられる筈でしょう。

「「記憶」」って、しっかりと考えると怖いですね、面白いとか、楽しいとか、そんな事柄も全部が「「記憶」」による御蔭ではあります。

 

 まあ、ここで触れたかった事柄は、人間の「「記憶」」の全てが「「海馬」」に記憶されると考えられるようですが、「「古い記憶」」は側頭葉にも記憶されるようでとも、言われます。明確な大脳の生理学、格別に「「記憶」」との大脳生理学&生化学などの詳細な「「記憶」」状況が、まだまだ、不透明です。

今後において、どのくらいが明確になるのか、人間の個人の五感六感の過去の歴史が如何に明確に大脳の「「海馬」」以外に記録される場所(大脳実質の一部でしょうが・・・)が発見されるかでありましょう。

人間個人ついて、不透明な事柄が沢山と不明のままでありますから、人間の知性と理性と科学と技術などと言いますが、大変に難しい問題が残されています。

今後の何時、明確になるかも不確定です。