<<劣等感>>「「劣等感」」続編19

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・

 そう、「「劣等感」」なんて、そのような{{感情}}から開放されるのは、本当に簡単ですよ。
もう少し説明しましょう。

 「「受」」について考えると、また、素晴らしい{{こころ}}の過程が有ります。
「「受」」とは、人間の五感を入れて六感も含めてみましょう。
人間の「「五感」」と「「六感」」、ですよ。
「「識」」を捨てるのが、無理だと言うならば、「「行」」を捨てる、「「行」」を捨てるのが無理ならば、「「想」」を捨てる、「「想」」を捨てるのが無理ならば、「「受」」を捨てるのです。

 「「受」」を捨てるとは、({眼})・{{耳}}・{{鼻}}・{{舌}}・{{身}}を捨てるのです。
でもですね、この「「五感」」だけでは、意味が無いですよ。
「「意識」」が無いと、人間の{{こころ}}と言うか{{感情}}の流れは、動かないのです。
「「五感」」と「「六感=意識」」が有ってから、人間の{{こころ}}の悲しいとか、嬉しいとか、立腹するとか、劣等感があるとか、驕りなどがあるとか、楽しみとか、嬉しさとか、そんな{{こころ}}や{{気持ち}}が動いて来ます。

 そのような「「五感」」や「「六感」」までを捨てれば、人間の「「悩み」」や「「苦しみ」」は無くなるのですが、・・・さて、皆様方は如何に感じるものでしょうか。
先ずは、「「六感」」を捨てれば、それだけで良いものでもあります。
でも、人間から{{こころ}}や{{感情}}を捨てるには、全く不可能です。
だから、「「六感」」を捨てるのが困難なら、「「五感」」を捨てて下さい、なって来ます。
例えば、「「見る」」事で、{{こころ}}の葛藤が増えるのであれば、「「眼」」を捨てれば良いですよ。

 こんな「「話」」もありますね。
「「自分の欲望」」が深くて、高齢ですよね、80歳までも悩み続けて来た人が、ある日、突然に、「「眼」が見えなくなったらしいのです。
そうすると、自分の「「眼」」で眼前の欲望をみたそうとしていた物事が、全く、どんなに考えても不可能となってしまったのです。
本人も、そんな不可能な事が、高齢者になって全盲になって自分の「「欲望」」の限界を知ったのです。

 同じですよ、ね。
「「耳」が難聴で聞こえない場合では、「「聞く事」」に諦めをつけなければならない。
「「鼻」」もそうですね、お料理でも「「鼻」」が無いと{{良い香り}}も無駄になりますね。
「「舌」」も、味わいが無理ですよ。
「「身」」も同じで、触覚が駄目になりますと、肌の触れ合いなどにも、人間の「「感じ方」」にも多いなる限界を感じて来ます。
どれ程に、人間は、自分の「「欲望」」を制御できるか、どうかでしょう。

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