<<劣等感>>「「劣等感」」続編18

 ・・・・「「五蘊盛苦」」・・・・・

 何度も、「「話」」をしますが、殆どの人達は、理解が難しいのかも知れません。
「「色」」が「「空」」になる過程を、今、話ました。
そこで、今、この過程、{{移り変わり}}に説明が必要だと感じます。

 『『五蘊』』の一番に最後の言葉ですね、「「識」」の意味は、認識するの「「識」」です。
眼前に、どんな良いもの、大好きなものが見えても、あまり欲しいとか嫌いとか、考えなかったら大丈夫ですね。
だから、拘る{{こころ}}は、認識の結果に現れる{{こころ}でしょう。
 そこで、眼前の物事にしろ、人間にしろ、認識しなければ、如何なる人達にも拘る
{{こころ}}は湧き出て来ないです。
悩むか、悩まないか、などの問題は、「「拘る」」事さえなければ、悩まないのです。
そのために、認識するのを中止すれば良いのです。

 認識するのを中止するためには、「「識」」を無くせば良い訳ですよ。
そう、「「識」」など持たないで、捨てれば良いのです。
「「識」」さえ持たずにいれば、人間は悩まずに生きる事ができますが、まあ、これは「「方便」」でもあります。
 そこで、「「識」」さえ持たずに、「「識」」を捨てれば良いのですが、でも、「「識」」は捨てられないと言うのであれば、そこで、「「行」」を捨てるのですね。
そうですよ。
好きだから近づこうか、嫌いだから離れようか、などと考える事が悪いのです。 
そう、考えると、頭の中で余分な思考が必要となり、マイナスの感情も動きますからね。

 そこで、「「行」」を捨てれば、自分の{{こころ}}}の動きは止まります。
だから、{{こころ}}の動きが止まれば、「「悩み」」や「「苦しみ」」や「「怒り」」などは湧き上がって来る事などありませんよ。
 それが、出来なければ、「「想」」を捨てれば良いのです。
何で!!!!,そこまで考えるのですかと言う方達も、確かに居るでしょう。
でも、現実に「「行」」が駄目なら、「「想」」を捨てれば良いでしょう。
そんなに言われても、そんなに簡単に言われても「「想」」までも、たやすく捨てるなんて
出来ないですよ。

 確かに、この通りに素直に従ってみるべきなのです。
{{想念}}を止めれば・・・、何も自分に降り懸かるもの、降り懸かる{{こころ}}なども
無いですよ。
 でも、{{想念}}を中止すると、人生の楽しい事柄も無くなってしまいそうですよ。
なんだか、凄く簡単な説明みたいです。
そう、人間の面白いのは、非常に簡単な事柄を明確にしないで悩むのです。
「「悩み」」や「「苦しみ」」や「「怒り」」から再生には、少しの勉強は重要です。

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